源 流
艀(はしけ)に帰宅の友達
聖坂グループの源には、私たちが畏敬する教育者伊藤伝(つたえ)先生とせん夫人のご夫妻がおられます。戦前から戦後にかけて、横浜港には荷役を担っていた木造の艀(はしけ)が多数停泊していました。その艀は運搬と住居を兼ねており生活する児童は、住居が絶えず移動し定まっていないため学校へ通うことができず、未就学児童が多数いました。伊藤先生ご夫妻は、その水上生活児童の教育のために一身を投げうち尽くされた方です。
伊藤先生は私立東京水上学校の中心的な教師でした。その学校が公立に移管されること契機に退職され、まだ水上学校のない横浜にご自分で設立することを思い立ち移転してきました。公立ではキリスト教教育ができなくなるとの思いも強かったようです。伊藤先生ご夫妻は大変熱心なクリスチャンであったのです。
昭和17年の太平洋戦争の最中、横浜市中区山下町で3名の水上児童を引き取り寝食共にしながら日本水上小学校を始めました。水上児童は、木造船の艀で生まれ育つという特殊な環境のため社会性に遅れがあり、特に小学生には丁寧な教育が必要であったのです。水上小学校はそのための教育でした。その後戦中戦後の厳しい時代、住居を転々としながらも擁する水上児童も徐々に増え、やがて教育は学校法人日本水上学校となり、生活面は社会福祉法人日本水上学園となり現在の中区山手町に定着しました。伊藤先生は、間もない昭和30年に召天されました。
その後時代の変遷と共に、港湾の輸送もコンテナ船となり艀が必要なくなりました。同時に水上生活者は激減しました。日本水上学園に措置される児童も、一般家庭の養育困難な様々な事情による児童になりました。これら児童は、特に社会性に問題があるわけでなく一般公立校へ通うべきとの機運が高まり、日本水上小学校は発展的に閉校することになりました。
しかし、古材で建てた貧しい校舎であっても6教室があり、教師も数名いて何よりも学校法人がある、何とかこの小さな資源をさらに継続して社会に役立てることはできないだろうかと学校を上げていろいろ検討することになりました。
艀(はしけ)に帰宅の友達