日本水上学校 (日本水上小学校)

1942年(昭和17年) 7月〜1967年(昭和42年) 3月

創立者

伊藤 伝

先生

伊藤 せん

先生

おばさま

 

林 新村

先生

水上アルバム       林 新村先生アルバム    

艀(はしけ)から学校に通う子どもたち

1959年(昭和34年)頃 学校全景

 創立者伊藤伝先生は、芝浦で永年水上児童の教育に献身されていたが、後に同じ港町で水上生活者の大勢いる横浜の地に、こ自身で水上学校をつくることを決心された。1942年(昭和17年)7月20日に横浜市中区山下町の印度商人館で、生徒3名を迎えて、日本水上学校(小学校)が誕生したのである。本校の創立である。
 その日の新聞は『ハマに水上学校−船頭さんの子女に養護教育、伊藤伝氏の温い施設』との見出しで次のように報じた。
 『……同校は、学校教育に恵まれない水上児童の福祉増進を図らんとするもので、国民学校に通学てきる水上児童を除く知能の遅れた不幸な子供や、今まで教育を受けることのできなかった超年児をも収容、個人個人の性格を生かす寺小屋式教育を施すものである。同仮校舎内に男女別寄宿舎を併置して共に学び共に寝るの楽しい楽園を建設するのだ。月謝は食費原料代として月9円という安直さである……』
 その後日本水上学校は、事情で移転をしたり、空襲で危険が迫り東京多摩の羽村に疎開したり、様々な艱難と共に変遷した後、1948年(昭和23年)11月より現在地(中区山手町)に安住したのである。
 伊藤先生は、この間の困難な時は常に讃美歌をうたい、聖書を開いて静かに祈ったといわれる。その聖書の箇所は「神はあなたがたをかえりみてくださるのだから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」というペトロ第一の手紙5章7節の御言葉であった。その先生は、福祉施設が認可され学校と施設を分けて運営するようになった翌年、1955年(昭和30年)4月10日に召天された。
 このように創立者と先達の教職員が心血を注いだ学校も、その後時代の変遷と共に、そのニードが変ってきたのである。即ち船舶輸送がバラ積みからコンテナ積みとなり、艀(はしけ)が不必要となり水上生活者が激減することとなる。
 開校以来25年間続いた日本水上小学校は、その歴史的使命を発展的に解消し、1967年(昭和42年)3月をもって閉校することとなったのである。
(20周年記念誌より)

〔伊藤先生の記録〕

日本水上学校と伊藤伝先生
  柿沼 慎  昭和35年4月10日 伊藤先生召天記念の日
 (日本水上小学校の文集『ともづな』35号 に掲載されたものです。)

副校長伊藤伝
 第二部 第一章 キリスト教と学校文化
 (書名不明、白字林間学校(現:児童養護施設白十字会林間学校、平和学園の前身)について書かれた書籍の抜粋)

八木 一男

校長

1958年(昭和33年)頃の入学式
1961年(昭和36年)頃の運動会

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Revised: 2016/03/02.